穀物の生産農業から、牛肉を中心とした育成肥育の畜産事業に転換して30年を迎える当牧場。 急激な経済発展に伴う社会環境の厳しい変化の中であっても、常に技術の研鑽をはかり、良質な肉牛の生産を行ってきました。 牛と正面から向き合う当牧場の誠実な姿勢の積み重ねが畜産事業の「実績」を築き、「信頼」を勝ち得てきました。 21世紀・・・・・将来をしっかり見つめ、新たなビジョンに向かって、挑戦しています。 代表者の私が牛飼いの農家になったのは昭和43年から。 地元の旭農業高校時代には野球に熱中し、卒業後も2年間、野球部の監督として学校に通い、20歳のときに就農した。 野球のポジションはキャッチャーでした。 ピンチにも動じない勝負強さはそのときに培われたものです。 その頃、周りには肉牛を多く飼う農家は少なかった。 肉牛飼養も開始3年後(昭和46年)には、現在3ブロックに分かれた本場の真ん中にある牛舎(B牛舎)を建設し、51年にC牛舎、56年にA牛舎を増設して開始13年後には3,000頭の大型肉牛農場にした。そうした規模拡大は乳雄、いわゆるホル雄導入で行われ、その後、各地に生まれたホル雄肥育大型農場のトップランナーになった。 しかし、牛肉の輸入自由化が話題に上り始め、昭和63年には3年後の自由化が本決まりになって、その影響が一番大きいのはホル雄肥育、あるいはホル雄子牛を生産する肉牛農家と言われ、飛ぶ鳥を落とすほどの勢いにあったホル雄肥育にも影が差した。 それに代わって脚光を浴び出したのはホルスと和牛の混合であるF1牛である。 ホル雄肥育の大型農場でもF1子牛の導入が始まった。 それでもしばらくホル雄肥育に執着したが、枝肉価格の値下がりなどの打撃はやはり避けられず、大きな痛手を受けた。 当牧場でも方向転換は否応なく迫られた。 時代が平成に変わった時、私は和牛にまだそれほど強い関心があったわけでもないが、12月、岩手の胆江家畜市場(現県南家斉市場)に立ち寄って「菊谷」や「恒徳」の子牛を60頭購入した、この血統子牛はその数年後、全国肉牛枝肉共進会でグランドチャンピオンを連続受賞し、銘柄「前沢牛」を確立する礎になったが、熱田牧場でも何とBMSno.12ぐらいの超高品質肉牛が何頭も仕上がった。 そのときの飼い方はホル雄肥育とあまり変わらず、今から振り返ってもあまりコストをかけない肥育であったので、試しに飼った和牛60頭はまさに干天に慈雨。 ホル雄肥育で受けた大きな傷もそれで癒された。 ホル雄からF1への切り換えもそれが一つのきっかけで、熱田牧場の牛舎も白黒の世界から叙々に黒になっていく。 平成5年には、野栄町の本場から車で20〜30分の海上町に、3万uの土地を確保し5億円を投資して分場を建設。 その農場は、F1子牛を収容し、のちに黒毛和牛の繁殖牛も導入した。 |
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